多元的無知 ~ 社会人の罠

多元的無知 ~ 社会人の罠

「多元的」とは、物事が多様な要素や側面から成り立つ様子を意味し、「多元的価値」は、単一ではなく複数の価値観が同等に正しく存在し、互いに矛盾し合うという思想です。また、相互に独立して競合しうる複数の源泉が存在することを認める考え方であるのが「多元論・多元主義」。これらの多角的な見識が社会・経済活動にどのような影響を及ぼすのか。社会や経済を前へ進めるにはどのような意識が重要なのか。広告・マーケティング業界に40年近く従事し、現在は株式会社創造開発研究所所長、一般社団法人マーケティング共創協会理事・研究フェローを務めている渡部数俊氏が解説します。


社会人生活の始まり

大学を卒業して就職し社会に出てすぐに、社会人という言葉を大変重く感じたのを思い出します。新入社員研修で「これからは社会人として自覚を持って欲しい」と言われてハッとしました。それまでは何かと親がかりで、責任とは縁遠い生き方でした。

入社した最初の赴任先での一人暮らしの経験は新鮮ではありましたが、炊事・洗濯・掃除からアイロンがけなど身の回りのことを全て自分でこなす必要があり、社会人としての自立を体験したと同時に改めて両親に感謝しました。

仕事先は小人数で家族的でしたしマスコミらしい雰囲気でしたが、仕事全般については知り得ないのと、近くに友人や知り合いが殆どいないため情報が無いやら寂しいやらで、東京で充実した社会人生活を過ごしている同期や友人達を羨ましく思ったものです。
会社では上司からいきなり叱られることも多く、自分のミスや失敗に反省出来る場合は受け入れられても、それこそ叱られる訳がわからない場面も多く、納得出来ない日々の繰り返しでした。
しばらくして東京本社へ転勤しますが、仕事量は膨大で忙しく、乱暴?な上司や先輩達も数知れず。常日頃、誰かしらに叱られるのですが、その怒りは多元的な理由でした。
多元的とは話し言葉としては聞きなれませんが一元的が反意語とするとわかり易いでしょうか。

近代経営学の泰斗、ピーター・ドラッガーは「マネジメント」などの著作に多元的という言葉をよく登場させています。ドラッガーは現実社会を鋭く多元的思考で見抜いていたことを示す現れだと考えます。

社会人生活の始まり

多元的価値観

現在、世界が覇権を競う宇宙。複数の宇宙の存在を仮定した理論物理学の学説として多元宇宙論またはマルチバースが注目されています。

改めて多元的とはどのような意味を持つのでしょうか。
通常は物事が多様な要素や側面から成り立っている様子を表します。重層的、多面的、複眼的、複層的、横断的など多くの様々なニュアンスがあります。英語では一般的にpluralisticやmulticulturalなどが使われています。

多元的を価値観という点から少し掘り下げてみると、「多元的価値」すなわち単一の価値観では無く、複数の価値観が同等に正しく存在し、互いに矛盾し合うこともあるという考えに出会います。
これは倫理多元主義や道徳的多元主義とも呼ばれ、価値の共約不可能性(異なる価値を共通の尺度で比較出来ないこと)を前提としています。

「多元的価値」は心理や世界観の多様性を認める思想です。
英国の哲学者アイザリア・バーリンは客観的価値多元主義という概念を提唱しています。道徳問題に唯一の正解があるとは限らず、異なる価値が対立し、比較不能である現実を指摘しています。

日本及び日本人の「多元的価値観」の根底に、聖徳太子が定めた十七条憲法にあるように「和をもって尊しとなす」で代表される協調性を重んじ、人を思いやる心が深く根付いています。異なる考え方を持つ人々をまとめるために自己主張を控えめにする傾向があり、これが欧米の一神教的価値観とは異なる特徴なのです。

多元論(pluralism)

多元論または多元主義とは、社会や特定の領域において単一の絶対的な原理や権力、価値観では無く、相互に独立して競合しうる複数の源泉が存在することを認める考え方です。
多様な集団による競争を通じて社会全体の利益調整を図ることを目的とし、政治理論や倫理学、哲学などの様々な分野で研究されています。

例えば政治理論としては「人」としての多様性を容認し、肯定した上で保護するといった国家方針を指します。国民の様々な宗教・人種・性別・学歴・愛好などを尊重し、少なくとも二つの価値観の異なる政党が並立出来ることを国家の目標としています。
これこそ、国家と個人との間に中間団体を設定することで行政機能の肥大化を防ぐ自由主義の理念と合致しています。

また、倫理学では幸福や善い生き方を追求する際、単一に還元出来ない複数の目的や価値が存在するという立場を取ります。
幸福とは快楽だけで無く、徳を重ねることや自己実現など様々な目的があり、善い生き方も一つだけで無く多数存在し、寛容が大切だという考え方です。
倫理学における多元主義は多数の文化の共存を支持する多文化主義の基礎となっています。

多元論

多元的無知(pluralistic ignorance)

日常、我々は周囲の人がどう思っているのかを推し量りながら行動しています。仕事でも生活でも周囲の人の考えは重要な判断材料です。
ただ、こうした判断材料は必ずしも正しいものだとは限りません。実際には多くの人が他者の考えや社会の状況について、体系的な誤解を抱えたまま行動していることが少なくありません。

「多元的無知」とは、集団の多くが自分自身は特定の意見や規範に賛成していないにもかかわらず、他の殆どの人がそれに賛同していると思い込み、その思い込みに基づいて行動してしまう社会心理学の現象です。
「誰もが信じていないが、誰もが『誰もが信じている』と信じている」と表現できます。
ある事件に対して、自分以外に傍観者がいる時には率先した行動をしなく無くなる心理を社会心理学では傍観者心理と呼び、「多元的無知」はその好例です。

具体的な例はアンデルセン童話の裸の王様や、やりすぎではないかと感じる自粛ムード。
また、育休の取得についても日本では育休制度に対する会社からの支持が高いにもかかわらず、取得することを「反対されるに違い無い」という間違った他者意識が、男性の選択を抑制している可能性が考えられます。
育休だけで無く、長時間残業も多くの人が「本当は早く帰りたい」と感じているにもかかわらず、「周囲は長時間労働を評価しているはず」と思い込んでしまっているのです。年休の取得や在宅勤務の選択についても同様です。

対策としては、本来見えにくい他者の考えを日常的に「見える化」することです。職場内に定期的に意見や考えを共有する場を設け運用します。
もう一つは情報の伝え方です。人々の記憶に残り易く「意味のある情報」と感じさせる工夫です。
最近では物語(ナラティブ)が人々の記憶や行動選択に与える役割に注目が集まっています。 価値観が変化しても他者の考えに対する認識が変わらなければ、行動は変わりにくいものです。

社会や経済を前へ進めるには、人々の意識だけで無く、他者の認識の歪みにも目を向けて是正していく視点が不可欠なのです。

この記事のライター

株式会社創造開発研究所所長、一般社団法人マーケティング共創協会理事・研究フェロー。広告・マーケティング業界に約40年従事。
日本創造学会評議員、国土交通省委員、東京富士大学経営研究所特別研究員、公益社団法人日本マーケティング協会月刊誌「ホライズン」編集委員、常任執筆者、ニューフィフティ研究会コーディネーター、CSRマーケティング会議企画委員会委員、一般社団法人日本新聞協会委員などを歴任。日本創造学会2004年第26回研究大会論文賞受賞。

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