近年、ニュースやビジネスの最前線において「経済安全保障」という言葉を見聞きする機会が急激に増えています。本稿では、この経済安全保障の中核的なテーマの一つである「経済的威圧」に焦点を当てます。
国家間の政治的、あるいは地政学的な対立が、どのようにして一企業のビジネスや日々のマーケティング戦略に直接的な影響を与えるのか、その根本的なメカニズムと、これからの時代に企業が持つべき視点について詳しく解説していきます。
「経済的威圧」とは一体何を指すのか?
はじめに、経済安全保障という大きな枠組みの中で語られる「経済的威圧」とは一体何を指すのかについて明確にしておきましょう。
経済的威圧とは、ある国家が自国の政治的、外交的な目的を達成するために、他国に対して貿易の制限、不当な関税の引き上げ、輸出入の禁止、投資の制限といった経済的な手段を用いて人為的に圧力をかける行為を指します。
軍事的な武力行使とは異なり、貿易や金融といった平時の経済活動という日常的な枠組みの中で行われるため、対象国の経済基盤や特定の産業に対して、直接的かつ深刻なダメージを迅速に与えることができるのが特徴です。
では、なぜ近年になってこのような経済的威圧という手段が大きな問題として取り上げられるようになったのでしょうか。その最大の要因は、皮肉なことに過去数十年で飛躍的に進展したグローバル化そのものにあります。
世界中の国々が国境を越えて貿易やサプライチェーンを通じて深く結びつき、効率性を追求した結果、高度な相互依存の関係を築き上げました。しかし、この密接で複雑なつながりが、ひとたび国家間の関係が悪化した際には、相手の弱点、すなわち急所を突くための強力な「武器」として機能するようになってしまったのです。
国際政治経済などの専門用語でこれを「相互依存の武器化」と呼びますが、あからさまな軍事力を行使することに伴う多大なコストや、国際社会からの激しい非難というリスクを避けるため、大国を中心とした多くの国が、このグレーゾーンの手段を外交の延長線上で多用する傾向が顕著になっています。
経済的威圧に見事対峙した中東カタールのケーススタディ
国家間の冷徹な駆け引きは、決して遠い世界の政治問題や外交問題にとどまらず、実際のビジネスやマーケティングの現場に甚大な影響を及ぼしています。
例えば具体的なケーススタディとして、2017年6月のサウジアラビアなどの周辺国によるカタールへの突然の経済封鎖措置があります。中東の政治的・外交的な対立が高まる中、サウジ側はテロ支援という名目により、カタールとの国境を封鎖し、貿易や物流を全面的に遮断しました。
それまで食料品の圧倒的大部分を隣国からの輸入に依存していたカタールの流通業者や小売業、さらには関連するサプライチェーンを担う企業は、一夜にして最大の供給網を喪失するという文字通りの打撃を受けました。
しかし、この事例は単なる被害の記録として終わるものではありません。食糧危機に直面したカタールの産業界は、迅速にビジネス戦略の転換を図りました。政府と民間企業が一体となり、トルコなど他国のルートへと供給網を振り替える積極的な調達キャンペーンを展開したのです。
さらに、数千頭の乳牛を空輸し砂漠に酪農施設を急造するなどの動きは大きく報道され、自国の食を守ろうという消費者のエモーショナルな共感や愛国消費の心理と見事に合致、結果として同国の国産ブランドはスーパーマーケットなどで広く受け入れられ、新たな一大産業を開拓することに成功しました。
この一連の出来事は、特定の国による経済的威圧を通じた突然の供給網喪失という危機に対し、他国への依存度を下げて調達の多角化を図るというリスクヘッジが、経営とマーケティングにおいていかに重要であるかを如実に示しています。
現在の経済事情が無条件に続くとは限らない。心得ておくべきポイントは?
先行きが不透明で地政学的リスクが常態化した時代において、ビジネスの最前線に立つマーケターや経営層は、どのような思考法を持ち、何を意識して戦略を構築すべきなのでしょうか。
まず、根本的な思考法として非常に重要なのは、経済的威圧という現象を一部の国の特有の問題として矮小化して捉えないことです。
私たちはつい特定の国家の特異な行動にのみに目を向けがちですが、大国による自国の利益を最優先した経済的な影響力の行使という点では、他の大国も決して無関係ではありません。
トランプ政権による一方的な関税の引き上げや、自国産業を過剰に優遇する保護貿易的な政策も、相手国から譲歩を引き出し、自国の経済覇権を維持するための経済的威圧の側面を強く持っています。従って、特定の国家のイデオロギーの問題として片付けるのではなく、世界の主要な大国による経済的威圧が同時多発的に表面化している構造的な問題であると、冷静かつ客観的に解釈することが不可欠なのです。
加えて、ビジネス戦略を立案する上で欠かせないチェックポイントは、この大国関連の対立構造が、決して一過性の現象ではなく、今後もさらに長期的に続いていくという厳しい認識を前提とすることです。
マーケティングの土台となるサプライチェーンの構築やターゲット市場の選定において、「現在の自由で平和な貿易環境が明日も無条件で続く」という楽観的な前提はもはや通用しません。
さらに重ねて意識すべきなのは、大国による経済的威圧が横行する世界のうねりが、思いもよらない場所へ波及していく可能性を考慮することです。大国間の激しい対立や威圧的な行動を目の当たりにし、強い脅威や危機感を抱いた新興国や中小国の中からも、自国の産業や貴重な資源を守るために、輸出制限や国内生産の義務化といった保護主義的な動きが表面化する可能性を常に視野に入れておくべきです。
消費者の需要動向ばかりではなく、自社の商品やサービスを構成するあらゆる要素が、いつどの国のどのような政治的決定によって制約を受けるかという地政学的なリスクを前提とした戦略を描く必要があることを念頭におくべきだと考えます。
「経済的威圧」という現実を正しく理解し、最悪の事態を想定しながらもしなやかな対応力を備えることが、これからの企業活動には強く求められています。






Strategic Intelligence Inc. CEO 代表取締役社長
専門分野は国際安全保障論、国際テロリズム論、経済安全保障、地政学リスクなど。海外研究機関や国内の大学で特任教授や非常勤講師を兼務。また、国内外の企業に対して地政学リスク分野で情報提供を行うインテリジェンス会社の代表を務める。