キリンの新規事業「エレキソルト」開発背景
――「エレキソルト」の開発に着手されたきっかけ、背景となる課題意識についてお聞かせください
日本では、塩分の過剰摂取が深刻な健康課題となっています。高齢の方や病気を患っている方だけの課題ではありません。若年層を含むすべての年齢層において食塩を過剰摂取しているのが、日本人の食生活の現状となっています。つまり、特定の層に限定された問題ではなく、国民全体が直面している健康課題といえるでしょう。
実際に減塩を実践している方々へのアンケート調査結果を見ると、約63%が塩分控えめの食事に不満を感じており、そのうち約8割が味に対する不満を抱えているのが現状です。
塩分を控えた食事を行っている/行う意思のある方に対するアンケート
――統計的な調査結果以外に、減塩に取り組まれている人々のリアルな声を拾い上げることも
意識されたのでしょうか?
私は元々食品素材の開発に従事しており、大学病院との共同研究を通じて、減塩の食事療法を継続できない方が多いという医師の声を聞いていました。なぜ続けられないのか、実際に患者様にうかがったところ、「減塩の重要性は理解しているが、食べ慣れた味で食べたい」「ラーメンや和食の汁物など好きなメニューを諦めたくない」と考える方が多いことがわかりました。
印象的だったのは、減塩に関して「不満はない」と最初に答えても、詳しく話を聞いていくと、実際は「不満はあるが、受け入れざるを得ないからしょうがない」という心理状態にある方が一定いらっしゃったことです。これは真の満足ではなく、「諦めの感情」です。そのため、発せられた内容を言葉通りに受け取るだけでなく、その背景にある感情について丁寧に聞き取ることの大切さを改めて実感しました。
――「諦め」という、表には出にくい本音に触れたのですね。開発者として、その心情を自分ごととして受け止めるのは苦労されたのではないでしょうか。
上記のインタビューに加え、私自身も3カ月間減塩食事を続けてみました。すると、現在他社から出されている減塩食品は非常においしく作られており、十分な満足感を得られるとわかりました。しかし、長期間続けていくと食べ慣れた味が恋しくなり、物足りなさを感じるようになったのです。食塩量を急激に半分にするという極端な方法を取ったことも原因として挙げられるでしょう。
減塩は徐々に慣らしていく段階的なアプローチを踏まなければ、継続を断念してしまう可能性が高いと考えるようになりました。
佐藤愛(さとう・あい)
キリンホールディングス ヘルスサイエンス事業部 新規事業グループ
東京大学大学院農学生命科学研究科修士課程修了後、2010年キリンホールディングスに入社。19年、明治大学 宮下芳明研究室と共同で「エレキソルト」を開発。同年「キリンビジネスチャレンジ2019」に応募しプロジェクト化。24年にエレキソルトの家庭用モデルを発売。
減塩生活を実現する減塩サポート食器「エレキソルト」
――減塩生活に伴う「我慢」や「諦め」を解消するために、どのようなアプローチに着目されたのですか?
お話してきた経緯から着目したのが、明治大学の電気味覚”技術(電気を流して味が変化する現象・味を変化させる手法の総称)です。この技術の活用により、 減塩食の継続性を向上する商品・サービスを開発できるのではないかと考えました。2019年よりキリンと明治大学 宮下芳明研究室で減塩の食事をサポートする電気味覚技術の共同開発およびその技術を活用した事業の共同起案を開始。“減塩における我慢を解消して、食事をより楽しんでいただく”ことをパーパス とした研究を進め、減塩食の塩味を約1.5倍に増強する電流波形を開発しました。これが現在の「エレキソルト」につながっています。
食器・カトラリー型デバイスとして開発したのは、日常の食事で自然に使えることを目的としたためです。いつもの食器・カトラリーを替えるだけでストレスなく食習慣に取り込むことができます。
エレキソルトの使い方
――開発で特に苦労された点はありますか?
開発における大きなハードルは、食事動作に合わせて自然な形で電流が流れるようにすることでした。電流の流し方によっては味が抑制されたり、動作に違和感が生じたりする可能性があったため、自然な食事ができる流し方を研究しました。
予想以上の反響に、生産体制を強化
―― 「エレキソルト」の発売後、消費者や流通など市場からどのような反響がありましたか。
発売後は想定以上の反響があり、抽選販売を実施したところ、予想の40倍程度の申し込みが殺到、急遽生産体制の整備を行いました。これにより減塩に関するニーズ(ペイン)が非常に深い領域であることを改めて実感しました。
―― お客様の声はどのように集めているのでしょうか。
お客様の声は様々な経路から収集しており、すべて開発チームに届くようになっています。お客様センターに寄せられる声のほか、実際にご購入いただいた方へのアンケート調査やインタビュー調査を実施することで意見を収集しています。
試験用食品を食した際に感じた塩味強度を定性アンケートでも確認
加えて、次のように様々なイベントや実証試験を実施しています。
- 小田原市役所の食堂での実証試験
- ソフトバンクの社員食堂の実証試験
- ハンズ店頭での会員様向けイベント
- 一風堂とのコラボによるラーメンと合わせた体験イベント
これらのイベントや実証試験の参加者様から直接話を伺うことで、幅広い立場のお客様からの生の声を収集する体制を構築しています。
実際に体験されたお客様からは「減塩への関心はあったが、改めてその大切さを考えるきっかけになった」といった意識や行動の変化を促す効果についても好評をいただいています。
一方で厳しい評価として、体感に個人差があるという声もあります。低周波治療器と同様に、弱い電流でも違和感を覚える方もいれば、強くしても何も感じない方もいらっしゃいます。いただいた声を反映し、電流の強度を選択できるようにしましたが、引き続き改善を重ねる必要があると考えています。
自社だけでは限界がある。社会課題解決には連携が鍵
―― 「エレキソルト」や減塩の推進に向けて、どのようなマーケティング戦略・展開を描いていますか。
今後は「BtoC」「BtoB」「BtoG」の3領域で事業展開する予定です。
- BtoC(一般生活者向け製品)
一般生活者に向けて販売を行い、日常的な使用を浸透させていく - BtoB(企業の健康経営、施設などの支援)
国内企業の健康経営・健康支援の一環としてエレキソルトを提供 - BtoG(政府・自治体支援)
政府や地方自治体の支援を通してさらに多方面での活用を目指す
次の5年間で世界中の累計100万人の方にエレキソルト体験を届けることを目標に活動していきます。
「BtoC」「BtoB」「BtoG」の3領域で事業展開
上記実現のために力を入れているのが、PR活動です。エレキソルトは、キリンの中ではめずらしく、事業化前から積極的な情報発信を行っていました。「おいしい食事のある人生を、すべての人に」というビジョンの実現には、自社だけでは限界があると認識していたためです。社内外問わず賛同していただける方々とともに事業を推進できる体制作りが重要と考え、事業開始前からマーケティングやPRに積極的に取り組んでいました。
―― 新規事業でPR活動に注力するというと、売上に直結する効果をすぐに測定できず、社内に費用対効果を証明することが難しそうだと感じます。
おっしゃる通りだと思います。そのため、施策の優先順位付けが現在の課題となっています。
新規事業として社内外から注目される中で、費用対効果や投資の妥当性について厳しい目で見られることは確かにあります。しかし、キリンではすべての事業でCSV(Creating Shared Value:共通価値の創造)経営を推進する方針を掲げているため、社会的意義のある事業への投資と育成に対する理解が得られやすい環境があると思います。
―― 最後に、本プロジェクトやご経験から、他社の新商品開発者・マーケターに伝えたいメッセージやアドバイスをお聞かせください。
現在は、一社だけで事業の立ち上げや拡大を図ることは難しい時代です。だからこそ各社の得意/不得意分野を活かした連携をすることで、より広範囲での価値提案が可能になると考えています。
私たちは「おいしい食事のある人生を、すべての人に」というビジョンを共に実現していきたいと考えており、このビジョンに共感する企業様との連携を強化していきたいと考えています。もちろん他社様がキリンの協力を必要とする場面があれば、喜んで協働させていただきたいです。
※追記:2025年9月9日より新商品「エレキソルト カップ」も発売。エレキソルト公式オンラインストアをご確認ください。





IT企業でコンテンツマーケティングに従事した後、独立。現在はフリーランスのライターとして、ビジネスパーソンに向けた情報を発信しています。読んでよかったと思っていただける記事を届けたいです。