人事異動
会社生活では人事異動がつきものです。何度となく職場が変わりましたが、入社してから定年まで同じ会社に勤務し、転勤や出向も殆ど経験しなかったこともあり、世間的にはさほど波風が立たない会社人生のように見られますが、本人にとっては人事異動の度に最大限の刺激を受けました。
配属された中でもマーケティング関連のセクションはバックヤードであり、主に社内での業務が多く、仕事量自体は膨大です。職場の雰囲気は社内で依頼された業務は出来るのが当たり前であり、ミスは許されないといった風でした。
営業関連のセクションは外での仕事が中心で、昼間は独楽ねずみのように広告主や広告代理店を飛び歩き、営業活動やプレゼンテーション、情報収集など慌ただしく動き廻り、社へ戻ると仕事の整理や打ち合わせ、夜は接待や懇親会など目まぐるしく一日を過ごさねばなりません。その間に、上司や先輩への報告、資料作り、紙面の割り付けや売り上げの確認、交通費・経費の精算などの業務が控えていて気の休まる時はありません。さらに仕事の延長である、上司や先輩・同僚との夜のミーティング、いわゆる飲み会。この席で社内外の噂や人事情報などの話題を肴にして飲むことが、よくも飽きずに繰り返されていました。
人事異動先に上手く適応出来るかは、夜のミーティング活動にメンバーとして参加が認められるかどうかが鍵を握ります。今考えると正に適応力と柔軟性が問われ、社内遊泳術のひとつだったのかもしれません。

適応力と柔軟性
英国を代表する自然科学者、チャールズ・ダ―ウインの「この世に生き残るのは、強いものでも賢いものでもなく、変化に対応できる生き物だ」という考えが生物進化論です。環境の変化により良く対応していくことが必要不可欠だと説いています。しかし、生物が様々な環境に都合良く合わせるように変化を遂げ、世代を超えて遺伝的に伝えていくのは甚だ困難です。環境の変化が起きた際に、他の個体と異なる身体的特徴を運良く持つことになった生物が生き延びたと考えることの方が無難であり、人間では知能でしょうか。社会情勢の変化が速く、複雑で不確かな現代に生きる我々は確かな将来を見通せないのは当然です。
サブプライムローン問題からリーマンショックにつながる世界金融危機を言い当てた、「破滅博士」の異名を持つニューヨーク大学名誉教授ヌリエル・ルービニ氏は著作「メガスレット」で世界が直面する巨大な10の脅威を指摘しています。①積み上がる債務、②誤った政策、③人口の時限爆弾、④過剰債務のわなとバブル、⑤大スタグフレーション、⑥通貨暴落と金融の不安定化、⑦脱グローバル化、⑧AI、⑨米中新冷戦、⑩気候変動。
このような状況において、企業経営や経済システムに求められるものは適応力と柔軟性の確保です。生じた変化に対して迅速に対応できる柔軟性をいかにシステムとして構築できるかにかかっているのです。警報が鳴り響いている今だからこそ、それぞれの脅威に立ち向かわねばならないのです。進化の過程で生き残った生物である人間の持つ知能を最大限生かして。

学びの見直し
学びや教育の内容の見直しは柔軟に対処するべき最重要課題のひとつです。必要とされる能力やスキルは以前と比べて著しく変化を遂げていますが、学びや教育の内容そのものは旧態依然としていることは否めません。大学改革をはじめ初等教育に至るまで学校教育の改革は常に話題となっていますし、リスキリングやリカレント教育も注目されています。
実際、能力を身につけるためには実体の変化に合わせた『調整』がポイントであり、リスキリングについても全く新しいことを始めるよりは、今までの経験をいかに新しい環境に適応させていくかという観点が重要です。
学校教育の現場では、柔軟な適応能力を養う教育が求められています。新しいことにチャレンジする力の育成を念頭に、論理的な理解力や優れた読解力、明解な説明力と表現力、様々な人に対する傾聴力やコミュニケーション能力を身につける訓練が大切です。
ただ、社会全体を考えた際に大きな問題として残るのは制度やルールが簡単には変えられないという点です。日本では間違いのないルールや規制の変更を目指すあまり、いつまでも結論に達せず現状維持のままということがしばしば起こります。学びや教育の内容の見直しにおいても、現状に則した素早い対応が求められているのです。
ナレッジマネジメント
日本の企業経営では暗黙知(Tacit knowledge)の共有によって、生産性を高めてきた社会構造が実存します。暗黙知とは、経験や勘、直感に基づく知識を指し、簡単に説明できないあるいは説明しても意味が伝わりにくい知識のことです。ハンガリーの社会学者マイケル・ポランニーが命名し、経験知ともいいます。
暗黙知に対するのは、言葉で説明できる形式知(Explicit knowledge)で、明示知ともいわれます。日本社会は暗黙知を共有することを商取引などの現場でも行ってきたため、柔軟性に欠ける面も目立ちはじめています。最近は特に、暗黙の内に了解して行われてきたことを客観化し見える化することが全ての職域で求められます。
暗黙知を形式知に変換するメリットとして、①属人化の防止、②業務の効率化の促進、③従業員のスキルの底上げ、④人材育成時間の短縮、などがあります。企業内の知識や技術などの共有化をはかり、さらに発展させるための手法がナレッジマネジメントです。日本を代表する経営学者である野中郁次郎氏はナレッジマネジメントを4つの要素、①SECI(セキ)モデル、②場(ba)、③知識遺産、④ナレッジ・リーダーシップに分類しています。
ナレッジマネジメントの導入は日本の企業に迅速かつ柔軟な対応を必要とする経営スタイルをもたらし、将来を見据えた継続的な収益性の向上を追求する経営戦略の要となります。長期雇用が未だに中心で、縦割りの構造が強い日本企業において組織再編はなかなか容易ではなく、デジタル技術が導入されても組織改革までには及んでいないのが現状です。組織内の業務内容や業務フロー全体を機能別に整理して、現状認識できる人材がより必要と考えられます。ナレッジマネジメントを深化させるためにも業務を俯瞰して把握出来る人材の育成が急務です。
企業にも人にも、複合危機が叫ばれる現代を生き残るためには進化論が示す適応力と柔軟性こそ必要不可欠です。同時に人類に堆積された膨大な知恵を活かす工夫が求められます。
株式会社創造開発研究所所長、一般社団法人マーケティング共創協会理事・研究フェロー。広告・マーケティング業界に約40年従事。
日本創造学会評議員、国土交通省委員、東京富士大学経営研究所特別研究員、公益社団法人日本マーケティング協会月刊誌「ホライズン」編集委員、常任執筆者、ニューフィフティ研究会コーディネーター、CSRマーケティング会議企画委員会委員、一般社団法人日本新聞協会委員などを歴任。日本創造学会2004年第26回研究大会論文賞受賞。