経済的ダメージを負ってまで選択する政治的決断、その先は
台湾情勢を巡っては依然として緊張が続いています。
米国のヘインズ国家情報長官は今年5月上旬、議会上院軍事委員会の公聴会において、「中国軍による台湾侵攻によって台湾での半導体生産がストップすれば、世界経済は年間6000億ドルから一兆ドルあまりの被害を受ける恐れがある」と強い懸念を示しました。台湾の半導体受託生産の世界シェアは2022年に66%に上り、その中でも台湾積体電路製造(TSMC)だけで世界シェアの半分以上を占めることから、有事によって生産停止となれば、寛大な被害が生じることは十分に想像が付きます。台湾や日本だけでなく、中国もかなりのダメージを受けるでしょう。
中国にも相当の経済的ダメージが及ぶことから、「そこまでのリスクを冒してまで台湾に侵攻することはないのでは?」と我々は想像してしまいますが、それはそれで危険な発想です。
2022年2月、国際政治や安全保障の専門家の多くは、ロシアがウクライナに侵攻することはないと観ていました。侵攻すればロシアを取り巻く環境は悪化し、欧米などが経済制裁を実施することは十分に想定されるので、そこまでリスクを冒して侵攻することはないとの見方が支配的でした。しかし、プーチン大統領は経済よりも自らの政治的心情を優先し、侵攻という決断を下しました。我々がウクライナ侵攻から学ぶべき教訓があるとすれば、ロシアや中国のような権威主義的国家の指導者は経済よりも政治的心情を優先する場合があるということでしょう。その前提に立って台湾問題も観ていく必要があります。
台湾有事は台湾市民や企業の自発的防衛を促進。また米国やフィリピンにも動きが
2023年に入り、台湾市民や台湾に進出する外国企業の間でも心配の声が高まっています。たとえば、同2月、台湾のシンクタンク「台湾民意基金会」が公表した世論調査の結果によると、中国による台湾侵攻についての問いに対し、「懸念している」と回答した人が51.6%に上り、2022年4月に実施された同調査から13%も増えたことが分かりました。台湾社会では最近有事に備えた軍事訓練、避難訓練に参加する市民が増加し、台湾政府も有事を想定した民間防衛マニュアルを発表しています。また、同2月、台湾の米国商工会議所が発表した調査結果によると、回答した企業の33%が「緊張の高まる台湾情勢によってビジネスに大きな支障が出ている」との懸念を示し、2022年8月に行われた同調査の17%からほぼ倍増しました。また台湾有事を想定し、事業継続計画を修正した、または修正予定と回答した企業は全体の47%に上り、米国企業の間でも台湾有事に備えた動きが活発になっています。
そして、台湾有事を想定してか、米軍も最近になって大きな動きを見せています。たとえばフィリピン政府は今年4月、新たに米軍が使用可能となったフィリピン軍の基地4カ所を発表しましたが、そのうち3つはルソン島北東部のカガヤン州やイサベラ州にあり、その位置関係はバシー海峡を挟んで台湾とも近い距離となります。これについては、フィリピンのマルコス大統領も、台湾有事の際に役立つだろうとの認識を示しており、米国側も台湾有事を想定し、フィリピンと軍事的協力を強めようとしている事が見受けられます。
一方、中国国内でも台湾有事を念頭に置いたかのような動きが見られます。台湾海峡を挟んで台湾本土とも近い中国福建省の厦門市では今年3月、有事を想定した市民向けアプリの運用が開始されました。厦門市は空襲などの際に市民が防空壕や地下鉄駅構内などにいち早く避難できるように市民のアプリ活用を呼び掛けているようですが、日本企業としては台湾だけでなく中国側のこのような行動も注視していく必要がありそうです。
実質的な動きは水面化か。今後の日本企業の動向にも注視
前述に挙げた数々の最近の情勢も影響して、日本企業の中でも台湾情勢への懸念が広がっていることは、そうした趣旨の企業講演を定期的に行っている筆者が肌で強く感じるところです。今日、台湾に進出している日本企業からは、「何がきっかけで有事になるか」「退避を開始するトリガーは何か」「台湾有事となれば日本のシーレーンはどのような影響が出るか」「台湾有事となれば日中関係はどうなるか、それによってビジネスにどのような影響が生じるか」など、さまざまな質問を受けることが多くあります。
現時点で脱台湾を図る日本企業の動きは筆者が知る限りではありませんが、まだ台湾から撤退するというような話はほとんど聞いておりません。しかし、台湾ビジネスにおいて危機管理対策を徹底しようとする企業の動きが、かなり広がっているように感じます。
国際政治学者、一般社団法人カウンターインテリジェンス協会 理事/清和大学講師
セキュリティコンサルティング会社OSCアドバイザー、岐阜女子大学特別研究員を兼務。専門分野は国際安全保障論、国際テロリズム論など。大学研究者として国際安全保障の研究や教育に従事する一方、実務家として海外進出企業へ地政学リスクのコンサルティングを行う。