学生時代の経済学
大学は経済学部でした。当時は近代経済学派が台頭しつつありましたが、まだまだマルクス経済学派も力がありました。近代経済学は数学を駆使し、数式や数字によって経済学を解明することで経済理論を構築しています。また、計量経済学では統計手法を活用した経済予測などを行っています。ただ、常に近代経済学では合理的に生きる人間を対象としていて、現実とどこか違うような気がしていました。逆にマルクス経済学は難しい資本論からはじまるのですが、論理的で共鳴しやすい部分もあり、特に国際的な応用分野ではこちらに軍配が上がった感がありました。学生でしたから深い理解は不足していましたが。
当時、京都大学佐和隆光教授著作の「経済学とは何だろうか」(1982年、岩波新書)が出版され、経済理論も相対的なものであり時代によって理論は変遷し得るといった内容に大変な衝撃を受けたことが思い出されます。科学理論とは普遍的なものであり、様々な研究を積み重ねながら発展させるものと信じていましたので。
学生時代の近代経済学のテキストの多くが欧米の経済学者の翻訳か翻訳に近い内容で書き直されたもので、接してみると馴染みにくく、理解しにくかった印象があります。特に人間は合理的な経済活動をするばかりではなく、理解不可能な活動も多く、心理的な影響を強く受けるはずと違和感を覚えていました。
経済人(ホモ・エコノミクス)
従来の経済学においては、対象とする人間像を経済的合理性のみに基づいて個人主義的に行動すると仮定しています。経済人というモデルでは、「所得の欲望体系のもとで満足もしくは効用を最大にするよう行為する」場合を「合理的」と呼んでいます。新しい科学理論を創り出すための仮想的な人間像です。同時に、政府も企業も人も最大限の利益を追求するように合理的に判断し、一度決断・決定した判断は実行することが前提です。当然、批判も多く、人間は社会的な地位や権利、資産のために行動するのであり、個人的な利益は結果に過ぎないなどはそのひとつです。また、人間には無限の情報処理能力はありません。人間の能力と時間には限界があり、あまりの難題を解決することは不可能ですし、常に正解を出すことはできません。突き詰めれば、経済学とは人間の研究なのです。
行動経済学とは
改めて、経済学を定義すると、経済学とは様々な経済におけるシステムや現象、仕組みについて研究する学問のことです。企業や個人の消費活動、生産や雇用、輸出入などの企業活動、あるいは世界の経済政策などすべての経済行為が研究対象です。
『行動経済学』は経済学の一分野であり、経済学と心理学が融合したものです。人間の行動は不合理な面を持っています。心理的な側面との関係が深い結果であり、従来の経済学とは視点が異なり、そこに着目する研究が『行動経済学』です。経済学の数学モデルに心理的に観察された事実を取り入れていく研究手法です。経済人が虚構としての人間であるのに対し、『行動経済学』の人間像は生の人間であり、事実に基づいているといえます。
『行動経済学』が登場したのは20世紀後半です。2002年のノーベル経済学賞を受賞した心理学者のダニエル・カーネマンと同じく心理学者のエイモス・トベルスキー、経済学者のリチャード・セイラーらによって創設されました。認知心理学や社会心理学、進化心理学など幅広く心理学の影響を受け、社会学や人類学などと学際的な研究分野でもあります。研究方法もアンケート調査やフィールドでの実験など実証的な方法を取るケースが多いことも特徴です。
非合理な人間の行動に一定の法則を見つけ出し、その傾向や方向性を明確にすることが『行動経済学』に求められています。現在では夢のようなバブル景気は爆発的な土地や株式への投機による景気拡大です。その後のバブル崩壊で、日本は大損害を被りました。まさしく、当時の日本人が非合理的な行動を続けたためであり、厳しいですが今では教訓です。
ナッジ理論
行動経済学の理論の中でも特に注目されているのが、ナッジ理論です。「ナッジ(nudge)」とは「(合図のために)肘で小突く」、「そっと押して動かす」という意味です。小さなきっかけを与えて、望ましい行動を取れるように後押しするアプローチのことです。多くのインセンティブや罰則などの手段・手法を用いるのではなく、「人が意思決定するための環境をデザインすることで、自発的な行動変容を促す」のが特徴です。2017年、この理論の提唱者である経済学者リチャード・セイラーがノーベル経済学賞を受賞したことで、アメリカの企業を中心に世界に広まってきました。
日本でナッジ理論が注目を集めたものに、新型コロナウイルスの感染予防対策があります。日本では手洗いやマスク着用が推奨されました。また、緊急事態宣言が発出され、外出自粛やテレワークが推奨されるなど行動が制限されました。しかし、強制力はなく、選択の自由は残されました。諸外国と異なる点です。罰則や罰金などもありませんでした。新型コロナウイルスの感染対策で行動変容を国民に要請する際、ワクチン接種も含めて、国民がそれぞれ自分に最も良い選択ができるように助言する立場で国や自治体は提言しました。
選択の余地を残しながらも、より良い方向に誘導する、あるいは最適な選択をすることができない人をより良い方向へ導く、これこそがナッジです。人々が強制的にではなく、より良い選択を自発的に取れるように手助けする方法が『行動経済学』です。相手の行動を変えて欲しい時に、ナッジ理論を応用することで人間関係をも良好に保つことが出来ます。
他にも『行動経済学』を活かしたビジネス手法やマーケティングが数多く存在します。デジタル化の進展やAIの活用が深まることにより、『行動経済学』の目覚ましい発展が予測できます。ただ、企業ではインターネットでナッジを利用して消費者に不利な決定に誘導することを「ダークパターン」と呼び批判が高まるといった問題も見受けられます。
これからも『行動経済学』には目が離せません。
株式会社創造開発研究所所長、一般社団法人マーケティング共創協会理事・研究フェロー。広告・マーケティング業界に約40年従事。
日本創造学会評議員、国土交通省委員、東京富士大学経営研究所特別研究員、公益社団法人日本マーケティング協会月刊誌「ホライズン」編集委員、常任執筆者、ニューフィフティ研究会コーディネーター、CSRマーケティング会議企画委員会委員、一般社団法人日本新聞協会委員などを歴任。日本創造学会2004年第26回研究大会論文賞受賞。